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ACミランの10番、本田圭佑選手、日本代表から落選か? そんな本田選手のJリーグ時代って、どんにゃだったんだろう?

自チームでの出場機会を失って久しい本田圭佑選手16日に発表される、W杯アジア最終予選に臨む日本代表の選考から外れた、との情報も流れてきました。

ここ数年では間違いなく日本のトップ選手だった本田圭佑ですがJリーグ時代の印象は薄い人も多いはずです。

ガンバユースに上がれなかった本田圭佑

本田圭佑選手は、1986年大阪産まれの30歳。
中学生時代はガンバ大阪ジュニアユースに所属していましたが、ユースチームには上がることができず、石川県の星稜高校に進みます
この時のユースに上がれなかった理由には、スピードに難があったことがあると言われています。この弱点は、現在でもサイドのポジションで起用しようとすると顕著になります。
星稜高校時代から、名古屋グランパスに特別指定で登録されナビスコカップで出場を果たしています。
他のクラブからもオファーはあったものの、名古屋グランパスに入団、2005年から3シーズンを過ごし、オランダのVVVへと旅立ちました。その後の成り上がりっぷりは、説明不用でしょう。

Jリーグ名古屋グランパス時代の本田圭佑選手。

名古屋グランパス時代の3シーズンで、本田選手はリーグ戦90試合に出場し、11ゴールを上げています
高卒の選手がこれだけの成績を上げるのは、稀なことです。
しかし、髪が金髪ではなく黒かったから、というわけでもなく、そこまで強烈な印象を残す選手だったとは言い難いです。

まずJリーグ時代のプレースタイルは、かなり控えめでした。
現在のようにボールをキープし、ドリブルを見せ、ゴールに直結するプレーをするスタイルではなく、パサーというイメージでした。
フリーキックミドルシュートも決めていましたが、あくまで「グランパスの若くて良い選手」というのがJリーグファンの認識だったのではないでしょうか。

ですから、オランダのVVVに移籍する時も「もう海外に行くんや!」と驚いた人も多かったはずです。

本田圭佑選手の移籍と成功から、選手の欧州移籍へのタイミングが変わった。

それまでは、Jリーグで絶対的な成功を修めてから、欧州に挑戦するというのが一般的な移籍のイメージでしたが、本田圭佑選手は違いました。

高校卒業から3年、まだまだこれから、といった成長課程での移籍といった感じです。これを可能にしたのは、グランパスへの加入時に「海外からのオファーがあれば移籍を認める」という条項を盛り込んでいたためでした。
この時代にこういった条項を盛り込んだところに、彼には並外れた上昇思考と先見の明があったと感じさせられます。

Jリーグで大きな成功を修めなくても欧州に行く、良い意味でJリーグのサッカーに染まる前に海外へ出る、こういった傾向が本田選手の移籍以後強くなっていった気もします。

近年日本代表の10番をつけた香川真司選手も、J1では大きく活躍はしていません、J2で活躍した選手で、J1ではどうかな?といった段階でJリーグを卒業していきました。
清武弘嗣選手や乾貴士選手も、どうにもならないほどJリーグで活躍したかと言うと、そうではありません。どのクラブに数人いる「良い選手」といった認識だった人も多いはずです。

成長課程のうちに欧州に飛び出すという本田圭佑選手の方法が定着してから、日本人選手の海外での活躍が増えたと言っても過言ではないのではないでしょうか。