釣りにゃんだろう

猫のように気まぐれに 独断と偏見に満ちた釣り情報をお届け

渓流釣りと管理釣り場の違いが分からない。

渓流で釣りをする人の中には、「管理釣り場で釣ったってねぇ」と管理釣り場で魚を釣って喜んでいる人を、バカにするような発言をする人がいます。
私は、そういった人を見ると、喜んでいる人をバカにするほどの権利はないはずだと思うのですが、どうなのでしょうか。

 

渓流と管理釣り場の違いが分からない。

f:id:nyandaro:20190209110632j:plain

そういう発言をする人の意図するところは、「逃がされた養殖魚が沢山いる管理釣り場で魚を釣っても、そんなに価値はない」ということなのでしょう。

しかし、日本の渓流や湖と管理釣り場はそんなに違うものなのでしょうか?
東北や北海道以外の地域では、けっこうな僻地まで行かないと、自然繁殖している魚が沢山釣れる場所はありません。
渓流や湖で釣りをする人の大部分が、卵か稚魚か成魚で放流された魚を釣っているのではないでしょうか。

シチュエーションと魚影の濃さの違いがあるだけで、人為的に逃がされた魚を釣っているということには、管理釣り場も渓流も違わないのではないでしょうか。
先程のような発言をする人ほど、そんな場所で釣りをしていることが多い気もします。

どちらの釣りもあまりしない立場から見れば、どちらが凄いとか偉いなんてことはなく、似たようなものにしか見えません。


そもそも釣った魚の価値は、釣った人にしか決められない。

f:id:nyandaro:20190209110836j:plain

とは言え、自然繁殖した魚(ネイティブ)や自然の川で育った魚(ワイルド)を、釣り人が重要視する気持ちは、私にもよく分かります。
ダム湖で産まれて大きくなった魚でさえ、私は「どうも人為的で嘘くさい」と思ってしまいます。

しかし、ここからは自戒の意を込めて書きますが、その考えや価値観で、人の釣った魚まで判断してはいけないのだと思うのです。

 

 

f:id:nyandaro:20190209110753j:plain

私には、数年に一度くらい気が向いた時に、学生時代の後輩を管理釣り場に連れていくことがあります。
彼は、まあまあ釣りが好きなのですが、何しろ多忙で「次は自分のタックルを買います」と言いながら何年もたつような状態で、まだ趣味が釣りとは言えないくらいのレベルです。

そんな彼は、魚が釣れると本当に嬉しそうな顔をします。
ちょっと大きい魚が釣れると、「これはちょっと嬉しいな」とそのまんまの感想を話しながら、ニコニコと魚の写真を撮っています。

 

いくら養殖され逃がされた魚でも、彼にとってはとても価値のあるもので、これだけ人間を喜ばせる力があるのだと、その光景を見ると思い知らされます。
そして、彼にとってのその魚の価値というものは、他人がどうこう言っても変わらない普遍的なものでしょう。

だから、釣った魚の価値というものは、その本人にしか決められないものだし、他人がとやかく言うものではないのではないでしょうか。
どんな魚でも、釣った本人がとても嬉しければ、それはトロフィーフィッシュなのです。

それに、どんな魚だって一生懸命生きている一つの命 には違いないのですから、それに人間が優劣をつけること自体、そもそも間違っているのかもしれません。

 

 

f:id:nyandaro:20190209111053j:plain

釣りを長く続けるほど、自分の価値観で魚に優劣をつけたり、その考えを他人に押し付けがちになってきてしまいます。
そんな時に私は、川の中でふと立ち止まり、どんな魚でも釣れると純粋に喜ぶ後輩の顔を思い浮かべて、静かに自省することにしています。