釣りにゃんだろう

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集団主義的な日本の釣り。

この国の文化は集団主義的であると言われています。
集団主義とはどういうものかと考え出すと、それだけで長く難しい話になってしまうので、今回は「みんなで同じことをしたがる」「他人と違うことをする勇気がない」くらいに簡単に考えてみたいと思います。

 

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こういった日本人の性質がよく表れていると思える例に、サッカーの応援があります。
日本のサッカーの応援は、コールリーダーと呼ばれる指揮者が決められていて、その人が発した通りに、歌を歌ったりして応援をしています。

これは世界的に見ても、かなり奇妙で集団主義的な行動なのではないでしょうか。
サッカーを見ていて応援をしたいのなら、個人個人が好きに声をあげれば良いはずですし、そういった声が自然とまとまって大きな合唱に変わっていくのが、古くからサッカーの行われていた国での応援です。

しかし、日本人は誰かが「いくぞー」とまとめて、誰かが決めた歌でないと、声を出すことができないのです。
一人で何かを考え決めて行動することはできないのに、誰かが決めたみんなですることなら、急に自信満々で大声をあげはじめるのです。

 

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こういった観客の感覚は、サッカーを見に来る時の服装にも表れていて、サッカーを見に来る人は、かなりの確率でお揃いのユニフォームを着ているものです。

対戦相手のユニフォーム以外なら、何でも好きな服を着て行って良いはずなのですが、お揃いのユニフォームを着ていないと恥ずかしいと思ったり、着ていないと試合観戦に行ってはいけないとさえ思っている人さえいるようです。

 

私は、こういった光景を見る度に、なんだか薄気味の悪いものを見たような感覚を覚えます。
「みんながするから、そうしよう」
「みんながするから、それでいい」
その「みんな」が誰なのか、何者かも分からないまま、個人では何一つ考える頭を持たずに、なんとなく集団で動いていってしまう。
おそらく、昔この国が戦争をした原因もこのような国民性によるところが大きいのでしょうし、そういった国民性はその頃から何も変わっていないのではないでしょうか。

 

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こういった集団主義の薄気味悪さは、釣りをしていてもよく感じるものです。

例えば、何かの魚を釣るとすると、誰かが決めたその魚用のロッドがあり、それに使うためのリールがあり、釣り方があり、その通りにやることを、多くの釣り人が望んでいます。
それ以外の道具を使ったり釣り方をすることは、恥ずかしいと思ったり、間違っているとさう思う人もいるようです。

釣りなんて、自分で考えて、好きな道具で好きなように釣れば良いはずなのに、ここでも「みんながやっている」釣り方を気にして、同じようなことをしたがる人が多いのです。

同じような道具を使い、同じような釣り方をしないと安心できず、魚のことよりも周りの釣り人の群から外れないようにすることばかり気にしているような釣り人が、この国には、かなりの数居るのではないでしょうか。

 

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こういった集団主義的な釣り人の性質は、釣り具メーカーからすれば、非常に物を売り易く助かっているはずです。
一度何かを流行らせてしまえば、喜んで釣り人は群でその商品に食いつきまくるのですから、こんなに釣りやすく商売のしやすい相手はいないでしょう。

 

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こうして、釣り人達の群が次々と釣り上げられているのを見ていると、私はなんだかこの国の根深い闇を見ているような気がしてきて、もう釣りどころではなくなってしまいそうです。

ですから、釣りをする時はできる限り釣り人の居ない場所に一人で行くようにして、できる限り釣り人を見ないで済むようにしています。

これからも、この国の釣り人の集団主義的なところは変わらないものでしょうし、それが嫌な私には、できる限り見なかったり、見なかったことにすることくらいしか、できることはないのですから。