古い釣りの本などを読んでいると、釣れた大物を持って家の前のような場所で撮られた写真が載っていることがよくあります。
これは、現代になって見てみると、かなり奇妙でシュールな絵です。
川や海で釣れたはずの魚を、なぜか自宅の前で持ってドヤ顔を決めているのですから。
若い人達の中には、魚をキープするにしても写真は釣り場で撮ればいいのではないか?と考え、この「自宅前ドヤ顔写真」が存在する理由を理解できない人も多いかもしれません。
しかし、私は昭和の生まれですから、ギリギリこういった写真が撮られていた仕組みを理解することはできます。
現代では写真というと99%以上がデジカメ(またはそれが内蔵されたスマホ)で撮られたデジタル画像でしょうが、こうなってきたのはここ20年ほどの話であり、それ以前は写真といったらフィルムで撮るものしか存在していませんでした。
ですから、私が子供の頃は釣りには「写るんです」のようなレンズ付きフィルムかコンパクトカメラを持っていき、釣果や景色の写真を撮るのが当たり前でした。
それでは、こういった子供でも気軽に写真が撮れるような扱いの簡単なカメラが一般的になる前はどうだったかというと、写真を撮るにはある程度の技術と知識が必要なカメラを使うしか方法はなかったはずです。
そうなってくると写真というものは、誰でも気軽に撮れるわけではなく、ごく一部の写真が趣味の人達にしか撮れなかったはずです。
当然、釣り人なら誰でも写真が撮れたはずもなく、釣り人の中で釣り場にカメラを持ってくるような人は、滅多にいなかったのではないでしょうか。
ですから、魚が釣れても写真を撮ることができない人が沢山居たでしょうし、どうしても写真に撮りたい時には、魚を家まで持って帰り、家族や近所の写真の撮れる人に撮ってもらう必要があったはずです。
こうした仕組みで誕生したのが、自宅前ドヤ顔釣果写真なのではないかと、私は考えています。
死んだ魚の写真というものは、見ていてあまり気持ちの良いものではありませんが、こういった時代だったと考えてみれば、まあ仕方なかったのかなと思えてきます。
それにフィルムで撮られた古い写真には、今のシャッターを乱射したようなデジタル画像にはない独特の味がありますし、光と空気を写した一つの作品のようでもあります。
以前、一家全員で巨大なイトウを持った写真を家に飾られている方に出会ったことがありますが、その存在感と迫力に圧倒され、そんな魚が釣れた時代であったことも含めて、良い時代だったのだなぁと羨ましく思えてしまいました。
写真というものは、簡単に撮れてしまうほど、重みがなく薄っぺらな存在になってしまう気がしてなりません。
魚が釣れた時の感動や空気感も、スマホでカシャカシャと撮られた写真よりも、苦労してフィルムで撮った写真の方が、ずっと濃く強く残るのではないでしょうか。
私は、一時期は釣り場に古く重いフィルムカメラを持っていっていたことがあるのですが、近頃は利便性を考えて持って行かなくなってしまいました。
こうして利便性を追求し過ぎてきた結果、最近はどんどんと自分の魚釣りが味気無いものになってきてしまった気がしますし、そろそろ心のゆとりを取り戻して、またフィルムで釣りの写真を撮ってみようかと考えている今日この頃です。