釣りにゃんだろう

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日本人の釣りは伊達じゃない??

ある年、ある場所。
6月の夕方のこと。
「日本人はどうだった?」

毎日、キャンプの運営を取り仕切っているモンゴル人のおじさんが、一日の釣りを終えて帰ってきたガイドにそう聞いて、僕の釣果を確認する。

他のヨーロッパの人々にはあまり釣れず、僕が釣れたと聞くと、妙に嬉しそうである。
他のモンゴル人のスタッフも、ニコニコして握手を求めてきたりする。

一日で3匹タイメンを釣った日などは、おじさんに持ち上げられ、空中でグルグルと回されて祝福を受けた。
周囲の風景も相まって、風の谷のナウシカのラストシーンのようだった。

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遺伝子がかなり似ているだけあって、見た目が似ているし、普段は欧米の釣り人ばかりだからか、なんだか日本人の僕は、熱烈に応援されているようだった。

酒に酔うとおじさんは、「日本人、モンゴル人、ハート、ハート」と繰り返し、胸を指し示した。心が通じていると、言いたいのだろう。

さて、これだけ熱烈なサポーターが居るとなると、僕は日本代表として、毎日喜んでもらうために、結果を残さなくてはならない。
自分一人の釣りではないのだ。あまりいい加減なことはできない。

 

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とは言っても、そんなに真剣に釣らなくても、普通にちょちょっとやれば、自然とグループの中で、だいたい毎日トップの成績であった。
ルアーも根掛かりで失わない限り、一つのものを着けっぱなしで、「これで釣れない魚は放っておこう」という、かなりいい加減な釣りであってもだった。

これは、日本人の釣り人としては、かなりいい加減であっても、世界から見ると充分に繊細な釣りであることが理由のようだった。

ちょっとでも針先が鈍ればフックを交換する。
魚が釣れたり、岩に擦れれば、すぐにラインを結び直す。
流れやレンジを考えて、細かくルアーを流す。

こういった、釣りをするなら、当たり前のようにやることが、他の人々には、そこまで徹底されていないようであった。
漠然と投げて巻くというのが、基本的な釣りのようである。
おそらく、それで釣れるだけの自然が、日頃から身近にあるため、それ以上の繊細な釣りをする必要がないのだろう。

それに比べて、日本には魚は少なく、そのくせ釣り人が多い状況で、無理矢理なんとか魚を捻り出すような、とんでもない環境で釣りが行われている。

そんな中で、異常なまでに、釣り具と技術が発展しているのではないだろうか。

だから、日本の釣り具は、間違いなく世界一であるし、日本人が外国に行って、日本でやるように本気で釣りまくったら、魚が絶滅してしまうレベルなのかもしれない。

 

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そんなわけなので、僕は日本で釣りをする時よりも、少しいい加減に、おおらかに釣りをしても、問題なかったのだろう。

帰る日の前日の夕方、おじさん達は、動物の角で作った魚のオブジェを、僕に贈呈してくれた。
僕は、また会おうと約束して、その風の谷を後にしたのだった。

今でも、少し獣くさい魚のオブジェを眺めては、地元の人達に応援され、釣りに明け暮れた日々を思い出す。

自分が魚を釣ると、とても喜んでくれる人達が居る。言葉はあまり通じなくとも、魚釣りをすることで、心が通じていく。
後にも先にも、これだけ心の暖まる釣りは無かった。

また、あの谷に戻るのだと、思い続けて何年が経ったのだろうか。
なかなか、その機会に恵まれない。
全てが夢の中の出来事だったかのように、愛と釣りの日々が、淡い記憶の靄の中に埋もれつつある。

 

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