釣りにゃんだろう

猫のように気まぐれに 独断と偏見に満ちた釣り情報をお届け

salsa サイダー

彼女は現れなかった。空がぼんやり明るんできても。

「駅の近くの赤い橋のところで。夕方の6時頃に」
そう約束したのは、おとといの夜。

f:id:nyandaro:20180502101851j:plain

走行距離17万キロオーバーの、車体を軋ませて走る銀色の軽自動車を、深紅の橋のたもとに停めて、彼女がよろよろと歩いてくるのを僕は待っていた。
クマゼミアブラゼミが鳴きやんで、ヒグラシが鳴きはじめ、やがてそれも鳴きやむと、カエルの合唱が始まった。

薄く雲のかかっって輪郭の不明瞭になった月を眺めながら、彼女がどんな姿で現れるのか妄想にふけっていた。
背中にフェンダーのギターを背負って、キャリーケースを曳いて、ショートカットのうなじに汗の粒を浮かべながら、川の上流の寂れた温泉街の方から、この町を出て行くために歩いてくる彼女の姿。

 

f:id:nyandaro:20180502102132j:plain

ただ、何度想像を膨らませても、彼女がどんな服装で現れるのかは、どうしてもイメージできない。
彼女が着ている服といったら、コンパニオンの仕事着の赤いミニの浴衣しか、僕は知らなかったのだから。

結局、どんな服を着てくるのか正解を得られないまま、狭苦しい車の中で朝を迎えた。
陽が昇ったのか、昇らないのか、雲が多くてどうにもはっきりしないような朝。
深い紺色の空が、ぼんやりと白くなっていく。

 

f:id:nyandaro:20180502101936j:plain

「夕方と朝方を聞き間違える人はいないだろうし、自分があの時、ひどく酔っていたからといって、そんな間違いが起きるほど呂律が回っていなかったはずもないだろう」
僕はそう判断して、車を300メートルほど下流に向けて走らせて、河口で釣りをして暇をつぶすことにした。

靴と靴下を脱いで、護岸のコンクリートの上に自殺するように綺麗に並べ、河口の川の水と海の水が攻め合うあたりに立ち込んで、ルアーをぶん投げて釣りをする。
ひんやりと冷たいさざ波は、繰り返し繰り返し、規則的に僕の足元をさらう。
白けた海と空は、その境目がどうにもはっきりしない。

唐突に背後で、すばしっこい人間の気配がした。
振り返ると、緑色のTシャツを着た小太りの小学校3年生くらいの少年が、ビーチサンダルを履いたまま水に入って、バチャバチャと近づいてくる所だった。
Tシャツの裾から、その豊満な腹が飛び出しそうな勢いだ。
片手にはサイダーの瓶を持ち、理想の夏休みの小学生を具体化したような少年。

「何が釣れるの?」
少年が波の音に負けまいと大声で叫ぶ。

困った質問だ。
狙っている魚はいる。けれども、それはおそらく釣れない。
今まで、一度も姿を見たことがないのだから。
それから、狙っていない魚もおそらく釣れない。ここで魚が釣れたことは、ボラがスレで掛かったことがあるだけだった。。

「たぶん、何も、釣れない」
必死で考え出した答えが、これだった。
「何も釣れないのに、釣りをしてるの?こんな朝っぱらから?」
少年は素直過ぎる疑問をぶつけてきた。
「そう。でも、もしかしたら、と思うと、毎朝眼が覚めちゃうんだよ」

「じゃあ、もしかしたら、何が釣れるの?」
「それは、釣れた時のお楽しみだよ。たぶん釣れないけど」
少年はつまらなそうに、僕の飛ばすルアーの行く先を真っすぐに見つめていた。

「さっきね。上の方で、死体が上がったよ。うちのそばでね。大騒ぎだったよ」
少年は釣れない釣りよりずっと刺激的なことがあったと、興奮気味にそう報告する。
「それでこんなに早く目が覚めちゃったの?」
僕は少年の早起きの原因を追求した。それは、ラジオ体操に行くより、クワガタやカブトムシを捕まえに行くより、ずっと衝撃的な目覚めだ。

「そう。女だったよ。真っ赤な着物の」
少年は、興奮したまま言う。

「見たんだ?上の堰の所?」
この川で人が上がるとしたら、その場所くらいしか考えられ無かった。

「そう。髪の短い人だった。短い変な着物で。そんな川に浸かってても、気にならないの?」
気にせずに釣りを続ける僕に、少年は素直な疑問をぶつける。
「あんまり。君だって浸かってるじゃない?」
インドなんかの川に比べたら、これくらい何だって言うんだ。

「そうだね。やっぱり何も釣れないね?」
少年はそう言って、僕の釣りに見切りをつけたらしかった。
夏休みの子供にはやることが沢山あって、こんな年寄りに朝から長々と付き合っている暇は無いんだろう。

「うん。釣れないなあ」
僕はきっぱりとそう答えてから、遠く沖合に浮かぶ漁船を眺めながら、リールを巻く手は止めずにぼんやりとりと考えた。
上流で死体が上がった川で釣りをすること自体は気にならないにしても、今日という日のこの朝に、どこかで見たことのあるような特徴の人物が、ありえそうな場所で息を引き取っていたというのは…。
少年は、着物と浴衣の区別だってろくについていないのだろうし…。

 

f:id:nyandaro:20180502102008j:plain

ふいに、彼女のパサパサに傷んだ茶髪のショートヘアーの毛先や、荒れた肌の頬が愛しくなって、手を繋いだ時の汗ばんだ温もりを、もう一度確かめたくなった。

振り返ると、いつの間にか少年は消えている。
飲みかけのサイダーの瓶を、護岸の上にぽつんと残して。

僕は川からじゃぶじゃぶと上がると、その生暖かい瓶を拾い上げ、8月の朝の空を透かして眺める。
白けていたはずの空は青かった。
海も青かった。