釣りにゃんだろう

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仏壇とアマゴ。

桜が散ったら、祖母の家にアマゴ釣りに行こうと、その年は心に決めていた。

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祖母の家は、伊豆半島にあり、家のすぐ横を鮎とアマゴで有名な川が流れている。しかし、その川は釣り以上に、早咲きの桜で有名で、シーズンの2月には、毎日大量の観光客がやってくる。

河原の道は、身動きがとれないほど、人でごったがえし、町中の交通は麻痺し、徒歩以外での移動は難しくなる。

こんな所だから、解禁してすぐは、釣りなんてする雰囲気ではないのだ。

さらに、桜の見頃が終わって、しばらくたった頃には、僅かながらサツキマスが登ってくるとの情報もあったので、僕は町に静けさが取り戻されるのを待っていた。

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釣りをする全日、祖母の家に着くと、仏壇の前に布団を敷き、釣りの準備をした。
まだ数回しか使っていない、80年代製のミッチェル408の黒い卵形のボディの優雅な曲線を眺めては、自分の買い物に自分で納得していたりもした。
このデザイン、和室にもなかなかマッチする。床の間に飾っても良いくらいだ。

ミッチェル 408 (フェースギア) - 釣りにゃんだろう

 

それから、軽く仏壇に手を合わせてから、ごろんと布団に横になって、早寝をすることにした。
祖母の家とは言っても、祖母の位牌が仏壇にあるだけで、今はもう空き家であった。祖父も、父親が子供の頃に死んでしまい、仏壇に位牌がある。

この祖父は、色々な職を点々とした面白い人物だったようで、一時期は魚の仲買いのようなことをやっていたらしい。
そこそこ上手くいっていたらしいが、ある日魚を移送するトラックが峠道で崖下に転落してしまい、廃業することになったらしい。

一応、魚に関わる仕事だったのだから、御利益がないとも限らないので、幼い頃から僕は、祖母の家から釣りに行く時は、会ったこともない祖父に、手を合わせてみていた。
しかし、崖下にトラックが落ちて廃業という、悲惨な終わりを遂げているからか、一向に御利益はないようだった。

 

 

さて、翌朝、早起きをして、遡上魚が溜りそうな堰堤の周りを目指し、河原の道を歩いて遡っていく。
道中、早朝から散歩している老人が何人も居て、すれ違う度に、おはようございます、おはようございますと挨拶をしなくてはならない。
田舎のこういう所が、性に合わないんだよなぁ、と思っているうちに数キロ歩き、ポイントに到着した。

魚は釣れない。
釣れないと言うよりも、居ない気がする。

手を変え品を変え、あちこち動き回っても、ただ川の音が鳴り響いているだけで、何の反応もない。カワウも暇そうに、石の上にぽつんと立ち尽くしている。

僕のつたないテクニックで捻り出せるほど、魚は居ないようだった。

 

一時間もすると飽きてしまい、もう帰りたくなってきた。
「お金の無駄だったな」
と思い出した時、流れの弛いスポットで、クイッと魚が掛かった。
リールのアンチリバースをオンにして、カリカカリカリと鳴らしながら、魚を寄せてきて、難なくネットに納めた。

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放流されたアマゴだろうか。遡上魚という壮大な夢からは遠いけれど、この一匹で、すっかり心が救われてしまった。
何より、「ついに祖父の御利益があったのかもしれない」と、父親に話す良いネタが出来たと、嬉しい気持ちでいっぱいだ。

すれ違う人々と、来るときよりも、はっきりさわやかに挨拶をしながら、僕は祖母の家へと帰っていった。

それから、僕は北海道での釣りに味をしめ、本州の川で釣りをすることはなくなってしまったし、祖母の家も売りに出してしまい、僕はアマゴを釣る機会を失った。

祖母と祖父の位牌は、家にあるのだけれど、すっかり手を合わせることを忘れていた。
そろそろ、また手を合わせてみようか。
魚屋のトラックが崖下に転落した幸運を、また授かれるかもしれない。