日本には、特に内水面において、放流された魚を釣るという仕組みが出来上がっている釣り場が、山のようにあります。
発眼卵や稚魚など、放流する状態は様々ですが、その釣り場そのままの環境や状態では存在するはずのない魚を、釣り人は釣っているということは、よくあることです。
私も、たまにそういった魚を釣ることもありますが、たまに「魚を放流してまで釣りをしなければならないのかな?」と、ちょっと疑問に思ってしまうこともあります。
どうして魚を放流しなければならないのか。
魚や卵を放流する理由は、二つあると思います。
まずは、昔はその場所に居た魚を取り戻そうとするためです。
自然環境が豊かで、釣り人なども少なかった時代には自然に居た魚を、放流したり環境を整備したりして再び定着させようという目的の場合です。
この目的で放流をするのなら、釣り人は魚を釣ってしまって邪魔をする存在になるはずですから、本来は全面禁漁にするべきでしょう。
産卵河川を禁漁にしたり、リリースを義務づけて釣りをさせている場合もあるようですが、どのように行っても釣りは多少は魚に被害を与えるものですから、釣りを許すべきではないはずです。
魚を放流するもう1つの理由として、漁や釣りのための営利目的ということが考えられます。
魚を増やして獲って売ったり、釣り人を呼んで入漁料を得たりする場合です。
漁をする場合には仕方ないのかもしれませんが、このようなことを、わざわざ自然の川や湖でする必要があるのか、私は疑問に思うことがあります。
逃がされた魚を釣るという仕組みは、完全に釣り堀と同じです。
釣り人は、自然の中で釣ったなどと、わずかな違いを気にしたりしているようですが、釣り堀で魚を釣るのと、大差がないことがほとんどです。
こういったことは、管理釣り場や釣り堀だけで行えばよいのではないでしょうか。
一部には放流や環境整備を行い魚を復活させつつも、釣り人に釣りを行わせて利益を得るという、二つの目的を同時に行っているような場所もありますが、これなんてまさに中途半端な行為なのではないでしょうか。
釣りをさせて利益を得るのなら釣り専用の管理釣り場のような場所で、自然環境を復活させたいのなら禁漁にすると、しっかり区別しないと、中途半端な結果になることは目に見えています。
しかし、このようなしっかりとした区別は、なかなか進んでいません。
このことは、釣り人の意識による所も大きいのかもしれません。
例えば、同じ放流されたニジマスでも、管理釣り場で釣った場合と自然の川で釣った場合では、自然の川で釣った方が「凄い」というような感覚を、多くの釣り人が持っています。
よくよく考えてみれば、大きな違いはないような魚です。
数が多いか少ないかとか、釣り方が違うとか、放流されてどれだけ時間が経ったかとか、そんな細かい過程を気にしなければ、同じような魚です。
それでも、釣り人は、自然の川で釣った方が、凄いだとか、偉いだとか、気分が良いだとか、価値があるだとか、何かと差をつけたがるのです。
もしもこういった考えを、放流された魚を釣っている釣り人達が持っていなかったら、大半の釣り人は魚の多い管理釣り場などに行き、自然の川に魚の放流されている魚影の薄いような釣り場には、釣り人は滅多に来ないはずです。
同じような魚を、自然の川で釣るか釣り堀で釣るかなんて、釣りをしない人達からすれば、どうでもよいことのような気がするかもしれませんが、釣り人達にとっては大問題なのです。
このような釣り人達の意識が変わらない限り、これからも川や湖にドバドバと魚を逃がしてそれを釣るという、なんだかわざと釣れる確率を下げた釣り堀を作るようなことが行われ続けるのでしょう。
釣りをしない人達からしてみれば、釣り人というのバカなんじゃないかと思われるかもしれませんが、まさにその通りなのです。
「釣りとは、釣り竿の片方に魚を、もう片方にバカが繋がった状態」だなんて言葉もあるようですから、釣り人というものはバカで無意味なこだわりを持った生き物なのでしょう。
そして、そのことに釣り人は気づいていないことはないのです。
川などで放流された魚を釣った時に、「これって釣り堀で釣ったのと、何が違うんだ」と、ふと思ってしまうことは誰にでもあるのです。
しかし、そこで「もう次からは釣り堀に行こう」と考え、無意味なこだわりを簡単に捨てられないのも、我々釣り人のバカな部分なのでしょう。
釣り人というものは、何とも面倒くさい人間なのでしょうか。
わざわざ放流された魚を釣っていると、しみじみと実感してしまいます。