釣り人は、自分がバラした大物のことは、いつまでも覚えているものですが、私には他人が魚をバラした光景でも忘れられないものがあります。
何年か前の春に、超有名な川でイトウ釣りをしていると、対岸にルアー釣りをしている若者がいました。
その若者のことは、何日か前から毎日見かけていて、車のナンバーから察するに、遠くからフェリーに乗ってはるばる来たようです。
そして、あまりイトウを釣ったこともないようで、「それだとなかなか釣れないんだよなあ」というような釣りをしています。

案の定釣れている様子もなく、毎朝私が対岸でフライでイトウを掛けると、ちょっと羨むような視線を感じます。
日に日に元気がなくなっていくようでしたので、ある朝、私はその若者に無言でポイント譲るつもりで、いつもとは逆の岸で釣ることにしました。
狙い通り若者は、私が毎日釣っている場所に現れましたが、相変わらず川のど真ん中に大きなミノーを投げて、グリグリ巻いてくるという、その場所では滅多に釣れないことをやっています。
釣っている本人も疲れきっているのか、自信無さげにダラダラと同じ動作を繰り返しているだけですし、あれでは今日もダメなんじゃないか?と思っていると、若者がルアーを投げた川のど真ん中で、突然ボンッと水柱が立ちました。

その瞬間、ジージーと若者のリールのドラグ音が響きました。
ドッボンドッボンという魚が暴れる音からして、絶対に小物ではないでしょう。
飴色の水の中には、口にミノーを咥えた魚が、黒点を散りばめた大きな頭を振るのが見えました。
頭の大きさから考えれば、余裕で90センチ以上はありそうです。
これで気分良く帰れるだろうなと思っていると、何度目かの首振りの瞬間、ルアーがピューっと飛ばされ、バレてしまいました。
思わず私は、「ああぁ…」と声を出してしまいましたが、釣っていた本人は無言で立ち尽くしています。

奇跡の満塁逆点ホームランが判定で取り消しになったようなものなのですから、その悲しみはどれほどのものだったのでしょうか。
結局、その若者は、それから小一時間ほど釣りをすると、タックルを念入りに片付けて、車を走らせて帰っていきました。
どうやら、その朝が帰るまでに釣りができる、最後の時間だったようです。
その時は、彼はきっとまた秋か来年にでも来てリベンジを果たせるだろうと、私は勝手に想像していましたが、どうもそれも難しくなったのかもしれません。

その夏の異常な渇水と暑さで、魚は激減してしまったのですから。
今でも釣れることには釣れるようですが、以前よりも釣りにくくなったことは確かでしょうし、あの釣り方であのサイズを釣るのはなかなか難しいはずです。
なんとか、他の川でもいいから、彼が大きなイトウを釣れてたらいいなと、今でも私は時々思います。
それくらい、あの時水中に見えた大きな魚の頭が、強烈に記憶に残っています。