釣りにゃんだろう

猫のように気まぐれに 独断と偏見に満ちた釣り情報をお届け

数釣りの是非。

先日、ヤフオク!を眺めていたら、このような出品がありました。

f:id:nyandaro:20191021142746j:plain

実際に道具を使っていた人の代理出品だそうですが、世の中にはこういった数釣りが趣味の人がまだまだ居るのだなぁ、と思わされました。
そんな数釣りという趣味について、今回はちょっと考えてみましょう。

 

数釣りの罪。

f:id:nyandaro:20191021142901j:plain

管理釣り場だろうと自然の川だろうと、餌釣りだろうとフライだろうとルアーだろうと、どんな釣り場やどんな釣り方の人の中にも、やたらと沢山の魚を釣りたがる、数釣りが好きな人という人々が居るものです。


そんなに釣ってどうするのか(一部には売っている人がいるらしいが…)、どこに楽しさや満足感を感じられるのか、常人には理解不能なのですが、確かにそういう趣味の人々がいるのです。

沢山釣れれば嬉しいものには違いないでしょうが、20センチや30センチの魚を何匹釣っても、完璧と言えるような満足感は得られないと私は思うのですが、どうなのでしょうか。

しかも、釣れば釣るほど、魚を傷つけているという感覚が麻痺して、命を軽視するような気持ちが芽生えてくる気がしてなりません。

それに、沢山釣れば釣るほど魚は減るのですし、リリースしても全ての魚が元気でいるわけではないのですから、数釣りが釣り場に与えるダメージは大きいです。

このように、お世辞にも数釣りは褒められた釣りではないのですが、魚や環境の保護が釣り人の中でも考えられるようになってきた今の時代でも、数釣りという文化はなくなっていません。

 

数釣りは、日本の釣り文化そのもの。

f:id:nyandaro:20191021143331j:plain

数釣りという文化が廃れないのは、そもそも古くから日本の釣りが、数を沢山釣ることに重点を置いて続けられてきたため、日本の釣り人の中には根強く数釣りという価値観が染み付いているからではないでしょうか。

海でも川でも湖でも、できる限り沢山の魚を釣って、その死骸をずらっと並べて自慢をする。
それが優れた釣り師の姿であるという、数至上主義のような価値観。
そんな価値感が、日本の釣りの根底には流れているのです。

ですから、時代が流れて釣り方がフライフィッシングに変わっても、その価値観は変わらずに、一年に1500匹も小さなアマゴを釣っている人が居るのです。

そういった人達が、古い価値観を持った年寄りの人達にしかいないと思ったら大間違いです。
若い人達でも、管理釣り場などでは、一日中飽きもせず何百匹も魚を釣り続けている人がいます。
数至上主義は、一部の若い釣り人の中では現役バリバリの思想で、古くから変わっていないものなのです。


数釣りはなくならない。

f:id:nyandaro:20191021144857j:plain

悪しき風習とでも言えそうな日本の数釣り文化ですが、今後もなくなることはないでしょう。

日本にはろくな自然が残されていませんし、一匹で満足して疲れ果てて倒れこんでしまうような魚は、あまり生息していません。
ですから、釣り人は小さな魚を沢山釣って、競ったり誇ったりするしか、自尊心を保つ方法がないのです。
このような状況は今後も変わることがないでしょう。

 

釣りはただの趣味ですから、沢山釣りたいのなら、それはその人の自由だと思います。

しかし、小さな国で小さな魚をセコセコと沢山釣る姿は、人間的にも小さく見えて、なんだか惨めで可哀想だと思ってしまうのは、私だけでしょうか。
膝がガクガクと震えてしまうような感動的な釣りがあることを、彼らは知らないまま生涯を終えるかもしれないのです。
一生を数釣りだけをして終えてしまうのは、あまりにももったいないと私は思います。