なんとか思い通りに魚が釣れて、ウェーダーを傷つけないような表面が滑らかな岩や倒木を探し腰掛け、冷たいけれど決して苦痛ではない風に吹かれてホッと一息つく時、頭の中に乃木坂46の「悲しみの忘れ方」という曲が流れだすことがある。
この曲の出だしの歌詞で描かれる情景が、なんだかそんな瞬間にぴったりだからそんなことがあるのだろうが、何よりもこの「悲しみの忘れ方」という曲名が釣りにぴったりなのも大きな理由かもしれない。
「釣り師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれを知らないでいる。」
というのは、開高健が繰り返し引用した林房雄という人の文である。
この文の通りに釣り人が皆、心に傷を負い悲しみを背負っているものであるのなら、その悲しみを少しでも忘れさせてくれるから釣りに行くのではないだろうか。
釣りだって、人生と同じで上手くいくことばかりではないし、悲惨な目に合うことも多い。
しかし、とにかく釣りに夢中になって打ち込んでいれば、自然と心の傷や悲しみは和らいで忘れがちになったり、ちょっとはそれを受け入れて生きることができるようになるものだ。
私のもう長いこと会っていない古い友人に、20代の早いうちに両親を亡くした人がいるが、人づてに聞いた話では、彼はそれから釣りばかりしていて暮らしているらしい。
その話を聞いた時、彼がそうなった理由が、同じように釣りばかりしている私には少しだけ分かった気がした。
やはり、釣り人というものは、釣りをすることで悲しみを忘れて、なんとか心を取り繕い生きているものなのだろう。
もっとも、全ての釣り人が、こういった気持ちで釣りをしているではないのかもしれない。
特に近頃流行っているような、「○○やってみた」とか「○○したら爆釣」というようなおちゃらけた釣り動画をアップするような人達や、それを喜んで視聴している人達には、悲しみは微塵も感じられないし、ただただ明るく無邪気に釣りをレジャーとして楽しんでいるようだ。
しかし、本当のところはどうなのだろうか。
「釣り師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれを知らないでいる。」のである。
彼らの笑いの裏には、本当は何らかの深い傷や悲しみがあり、本人達も気づかないうちにそれを癒すために釣りに熱中しているのかもしれない。
そう考えてみると、ああいった無邪気な釣りをする人達も、実は静かに釣りをして心を癒している我々と同じ仲間である可能性もあるわけで、あまり幼稚だとか批判するのは良くないのかもしれないとも思えてくる。
まあ、そうは言っても、あまりに下品過ぎる気もするし、ちょっとは穏やかになることを学んだらどうなんだと思わずにはいられないのだけれど…
釣り人は、本当に皆心に傷や悲しみを抱えているのだろうか。