二つ以上の釣り針がある仕掛けで、魚が同時に二匹掛かることを一荷(いっか)と言いますが、古いフライの雑誌というものを読んでいたら、フライを二つ付けて釣りをしていたら、60センチ台のイトウが一荷で釣れたという話が載っていました。
イトウという魚は、居さえすればフライでは比較的簡単に釣れてしまう魚ですから、こんなことが起きてしまうこともあるのでしょうね。
釣った人は驚きはあったものの、イトウは数を競う魚ではないとして、そこまで喜んでいないようでしたが、これが正常な釣り人の反応だと思います。
イトウを釣る人は、基本的に大物が釣りたいわけであり、一荷で釣れようが、一日で70センチのイトウが100匹釣れようが、あまりうれしくないものでしょう。
どんなに数が釣れるよりかは、最低限90センチくらいのサイズが釣れる方が嬉しいものですし、一荷なんてものには何の意味もないのです。
そもそもが、釣りというものは、一荷で釣れたからといって本当に心から嬉しいものなのでしょうか。
釣りの種類によっては、一荷どころか、鈴なりのように一度に沢山の魚が釣れるものがありますが、ああいった釣りは感動が薄い気がします。
釣りは、数が釣れれば釣れるほど喜びは分散されて小さくなる気がしますし、飽きてくるものではないでしょうか。
そういった釣りよりは、イトウ釣りのように納得のいく一本だけを求める釣りの方が、ずっと濃厚な喜びを感じられると思います。
一荷で喜ぶようなタイプの釣りでは、死ぬまで「釣れてよかったなぁ」と思いだし続けるような魚は釣れないでしょうし、ちょっと喜びが浅過ぎるのではないでしょうか。
どうせ魚を釣るのなら、一生に一度の体験が待っているようなものをしたいものだと、私は思ってしまいます。