釣りというものは、終わりのない焦燥感との闘いであるようだ。
脚がガタガタと震えるほどの釣果を上げて、ルンルンと鼻歌を唄いながら、飛行機なり車なりに乗って、すさんだ日常の待つ家に帰ってくる。
心地よい疲れの中で、もう長いこと忘れていたほど深く、しばし眠りにつく。
ちょっと体が楽になったら、魚の写真をプリントして、部屋に飾ってみたりする。
いつでも目に入る場所に置き、あの瞬間の感動を何度も思い返して、煩わしい日々の暮らしの励みにしようというわけである。
ところがである。
この段階になると、いつも必ず釣った魚が、自分の記憶と意識の中で、どうしたことか急激に「縮み」始める。
脚が震えるほどの感動もどこへやら、一度縮み始めると、もうその縮小化はどうしても止めることができない。
額に入った写真を眺めると、90㎝ほどあった魚が、もう50㎝ほどに思えてくる。
さらに次の日には、40㎝ほどまで縮んでくる。
そのうち、飾るほどの魚でもなったとさえ思えてきて、とうとう写真を目に入らない位置に片付けてしまったりもする。
もっとあの時、ああしていれば、もっと大きな魚が…
今度は、こうしてみようか…
こうしているうちにも、誰かに大物を釣られてしまうかもしれない…
どこまでも欲深い感情が湧き上がって来て、確かにあったはずの満足感は数日であっという間に吹き飛び、それからは後悔と焦りに思考は支配されることになるのだ。
これは、決して悪いことではないのだろう。
何かに120パーセント満足してしまったら、人生はそこで終了して良いことになるし、後悔と焦りが目を閉じる度に湧き上がってくる限り、人生という旅はまだしばらくは続くのだから。
この焦燥感が湧き上がらなくなった時が、釣りをやめるか人生を終える日だと思う。