釣りにゃんだろう

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開高健の釣り関連の作品で、小説として読む価値があるのは「私の釣魚大全」と「フィッシュオン」だけではないか。

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開高健は、沢山の釣りに関する作品を残している。
最近の若い釣り人はどうか知らないが、ある一定の年齢層の釣り人なら、かなりの確率で何冊もの作品を読んだ経験があるのではないだろうか。

「私の釣魚大全」に始まり、「フィッシュオン」で世界を周り、そして「オーパ」から続く数々の遠征作品へ。
最初はハンマーで岩を叩いてカジカを捕っていたのに、気づけば何メートルもあるチョウザメを釣るまで、どんどん大袈裟な釣りに向かっていく。

 

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釣り人目線からすると、どの作品も面白く、特にエライ所まで行ってエライ目にあって、たまにエライ魚を釣る、後期の作品は魅力的だ。
結構でかくて良い魚を釣っているので、釣り人の読者はちょっと羨ましくもなるし、腹も立ってくる。

しかし、今の時代なら、本に出てくる場所に、作家の大先生でなくても、ちょっと貯金を切り崩せば実際に行くこともできるのだ。
現代では、そんな風に釣りの旅のモデルケースとしても、作品を楽しむことができる。

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しかし、釣りをしない人間の目線で、単純に「読み物」として考えてみると、オーパ以降の作品達は、それほど面白いものではないし、小説としての価値も高くはないのではないだろうか。

何かこう、仕事で釣りをして、仕事で文章を書いているという雰囲気が溢れていて、釣りをする喜びや楽しみは、あまり伝わってこない。
純粋な喜びや感動が伝わってくるのは、「私の釣魚大全」と「フィッシュオン」だけではないだろうか。
この二冊だけは、作者がその経験に心を揺さぶられて、自然に書かれたもののような気がするし、釣りをしない人にも十分楽しめる文章になっていると思う。

その二冊以外の「もっと凄い魚を」と自分の内面からも、周りの人々からも駆り立てられて、世界を旅した釣りは、喜びよりも焦燥感に溢れていて、それほど楽しそうではないし、読者も楽しめるものにはなっていない。


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ここで少し、自分の釣りも振り返ってみることにしよう。

昔は、80センチの魚で膝がガクガクするほど喜んでいたのに、今では「ちょっと小さいな」と贅沢に手早く逃がすようになっている。
「やっぱり90はないと。いやいや100は絶対だ。120は100の2倍くらいの重さがあるぞ。ここまできたら140が目標だ」と欲望は膨らみ続け、横断歩道を渡っていても「これくらいの体高は欲しいものだな」と白線を目測するほど、どんどんとエスカレートして大袈裟な釣りに向かって走り続けてきたように思う。

その結果、開高健の作品がそうであったように、私の釣りからも純粋な喜びは消え、焦燥感だけが増していった気がする。

そんな中、昨年の夏ちょっとした思いつきで寄った小さな川で、小さな宝石のような魚と出会って、あまりの美しさに胸がいっぱいになった時、この焦燥感という呪縛から一瞬にして解放された気がする。
素朴な釣りにも、計り知れないほどの大きな喜びがあるのだと、一匹の魚が教えてくれたのだ。

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こうして解き放たれた私は、もう「私の釣魚大全」と「フィッシュオン」以外の本は、部屋の奥深くに片付けてしまった。
今年は、小さくても色々な美しい魚に会ってみたいと、3グラムのスプーンを買い集めたり、小学生の時に使っていた3番のフライロッドを家の中から発掘してきたり、あれこれと準備を始めている。

釣りキチ三平も「小さなビッグゲーム」と言っていたではないか。
開高健の釣り関連の作品で、小説として読む価値があるのは、「私の釣魚大全」と「フィッシュオン」だけではないか。

なんだか私の心は最近、素朴な釣りへと向いている。
小さな川や深い谷へと向かっている。
ただ歳をとっただけなのかもしれないし、またすぐに大袈裟な釣りに戻るのかもしれないが。
はたして、今年はどんな魚との出会いが待っているのだろうか。
春はまだ遠い。

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