釣りにゃんだろう

猫のように気まぐれに 独断と偏見に満ちた釣り情報をお届け

ウグイ 幻の魚

今では、釣れてしまうと「うわっ」と小声を発しながら、フックをつまんで秒速で逃がす、ウグイという魚。
子供の頃の僕にとっては、幻の魚であり、憧れの魚だった。

f:id:nyandaro:20180425130921j:plain

思い返してみれば、人生で初めてした釣りは、ウグイ釣りであった。

小学4年生くらいのある日。
幼い頃は大声を出せば聞こえるくらいの距離に住んでいたが、今は少し離れた場所に住んでいる幼馴染みから、手紙が届いた。
「最近、釣りを始めたのだが、これが楽しい。次に会って遊ぶ時には、是非とも釣りをしよう」
というような内容だった。

それまで僕は、虫を採ることに夢中で、あまり魚に興味はなかったのだけれど、その誘いに乗ってみることにした。

 

 

f:id:nyandaro:20180425131034j:plain

釣り当日。
幼馴染みと待合せをし、バスに乗って多摩川の支流の川に向かった。

堰堤の下のプールに辿り着くと、「今日はハヤ釣りをしてみよう」と、幼馴染みは言う。

手先の器用な幼馴染みは、糸の結び方や仕掛けの調整方法などを、説明しながら実際にやってみせてくれる。
ソーセージをエサにして、延べ竿で脈釣りや浮き釣りをしたのだけれど、当たりは一向にない。
幼馴染みは、あれこれ工夫をしてくれるけれど、魚が釣れる気配は、全くなかった。

 

それもそのはずで、その場所では、今では水質が改善されて色々な小魚が見られるようになったけれど、当時はどんより濁り奇妙な泡の浮いた臭い川で、時折コイが見えるくらいで、魚の姿はほとんど見られなかった。
それに、ウグイを釣るのならもう少し下流に行くべきだったと、今なら考えられる。

 

子供の頃は、釣りをしてもボウズが当たり前で、なかなか魚が釣れなかったものだけれど、こんな風に魚の居ない場所で釣りをしていたのが原因だろう。

大人になると、少しは物事を冷静に判断できるようになってきて、魚の居ないような場所で釣りをするという、負け戦は挑まなくなってくる。
車やフェリーや飛行機を駆使して、人が少なくて魚が沢山いる場所でしか、釣りをしなくなってくる。

 

こんなように、臭い川の匂いを味わうだけで、魚の引きを味わうことはできなかった人生初の釣りだったけれど、何故か僕は「おもしろい」と興味を持った。
すぐに、母親に延べ竿を買ってもらい、近所の小川でクチボソなどを狙うようになった。

 

魚が釣れなかったのに、一体何がおもしろいと思ったのだろうか。
ぼーっとしているのではなく、あれこれ試行錯誤をし、手先を使って微調整をし工夫をして頭を使うようなところが、おもしろかったのだろうか。

だとすれば、ただ竿を持たせるのではなく、手取り足取り親切に細かく釣りを教えてくれた幼馴染みのお陰で、釣りに興味を持ったのではないだろうか。

 

「あの時のお陰で、今でも釣りを楽しんでるよ」と、会う機会があれば幼馴染みに伝えたいけれど、もう15年は会っていないし、何処に居るのか生きているのかも分からない。
今なら、僕が逆に釣りを教えてあげられるだれうし、ウグイなら山ほど釣らせてあげられるだろうに。

こんな風に、ウグイをリリースしながら、帰らぬ遠い日々と幼馴染みの優しい笑顔を、たまに思い返している。

 

f:id:nyandaro:20180425131302j:plain

さて、このウグイという魚。
「ウグイのひとのし」と言われるくらいに、あまり抵抗しないことが多い。
無抵抗に釣られ、無駄に体力は消費せずに、釣り針を外されると勢いよく元気に帰っていくという、キャッチアンドリリースの時代に対応した、賢い天才の魚なのではないかと思うことさえある。

しかし、時折グイグイグイグイと長時間抵抗する、反抗的なウグイも居て、これがちょっと子供のイトウの引きに似ていたりする。
「小さいイトウだな」と思って寄せてくると、巨大なウグイだったりするのだ。
こんな時は、子イトウが、タヌキのようにウグイに化けたんじゃないかなぁ、なんて疑ってみたくもなってしまう。

ちょっと、はた迷惑な魚ではあるけれど、他の魚が何も全く釣れないような時にも釣れて、心を和ませたりしてくれ、居なければ居ないで寂しい存在なんじゃないだろうか。

[rakuten:naturum:16513665:detail]